プロフィール

たきしま喜重(よししげ)

昭和41(1966)年7月生まれ。
保谷小学校、保谷中学校、世田谷学園高校、帝京大学経済学部卒。
旧東京海上火災保険を経て、独立し、(有)西東京保険マネジメント代表を経て、(有)たぬきや代表。

西東京市議会議員(現職・統一会派みらい所属)、ファイナンシャル・プランナー(FP2級)、相続士。


地域活動

西東京商工会 理事
東京保谷ロータリークラブ 会員 2017-18年 幹事
東村山法人会 会員
靖国神社へ参拝する全国地方議員の会 会員

NPO法人・市民討議会ネットワーク 会員


前 西東京市献血推進協議会 会長
元 保谷青年会議所 理事長
元 まちづくり市民会議 座長
元 西東京市市民との協同の推進懇談会 委員

元 西東京ボランティア・市民活動センター 副委員長
東村山法人会 元 青年部 理事

現在の議員活動・出向状況等
企画総務委員会 副委員長
柳泉園組合議会 議員
西東京市都市計画審議会 委員
西東京市議会報編集委員会 委員

2012年 西東京市議会議員補欠選挙にチャレンジし、11,224票をいただくも、当選には届かず。
2014年 西東京市議会議員選挙 1.219票 当選(28位最下位)。


これまでの歩み

飼育好きな小学時代・卓球部部長を任された中学校時代
保谷小学校・保谷中学校)

小学生時代は、釣りが大好きで毎週末に釣りに行きました。又、動・植物等の世話や飼育が大好きで、気がつけば飼育した動物・魚・昆虫類の種類の多さでは、いまだに誰にも負けたことがありません。そのように両親は大好きなことを自由にやらせてくれましたので、感性豊かな少年時代を過す事ができました。

中学へ入ると、放課後の卓球部での部活に熱心に取り組みました。1年生で一番はじめにレギュラーに選ばれ、そのまま部長を務め、大変良い経験をさせてもらいました。
運動は好きで得意でしたので、リレーの選手に選ばれたり、充実した楽しい中学生時代を過ごしました。

空手に励んだ高校時代(世田谷学園高校)

高校時代(世田谷学園高校)は、寝ても覚めても空手中心の生活となりました。東京都大会では、個人組手に3位入賞。団体組手での優勝や全国大会ベスト8の成績を収めました。映画:松田優作主演「家族ゲーム」の空手のシーンにも出させていただいたり、漫画『押忍!空手部』の著者から取材を受けた事も良い経験となりました。

高校時代

リーダーシップを学んだ大学時代・妻との出会い

経済学部の学生としての勉強をする傍ら、社会勉強としてもいくつかのアルバイトを、かけもちで行いました。それは社会の様々な商業活動を知る良い経験となりました。

大学ではスポーツ系サークルに所属し、多くの仲間たちと交流を深め、サークルの代表を任されました。そのサークルを100名を超す巨大なサークルへと成長させました。そのような経験や運営ノウハウは、後の私のいろいろな社会活動に大いに役立つものとなりました。多くの人をまとめ、調整し、楽しく満足してもらえる運営を続けるには、どうしたら良いか、といった貴重なリーダーシップを実践的に学ばせてもらいました。他の人の為に汗を流させてもらったというご褒美でしょうか。活動の中で知り合った一人の女性が、その後の一生の伴侶、現在の妻との出会いとなりました。

就職活動と社会人時代 人のためになる仕事をしたい!

幼い頃からお世話好き、学生時代はリーダーとして率先して動く・・・そのような経験からでしょうか。自然と「人のためになる仕事がしたい」と思っていました。また学生時代のアルバイト経験から、自分の仕事の成果が目に見える、独立起業をする事を目指していました。

就職活動の当初は、お客様の一生のうちで一番高い買い物となる、ご自宅、家やマンションの販売という舞台で、誠心誠意のお手伝いができれば、その人にとっての生涯の喜びを提供できる仕事になると考え不動産系会社の就職活動をしました。結果、業界でも成長しているデベロッパー会社複数社からの内定をいただく事ができました。しかし、当時、不動産事業に関して、その綺麗なマンションや建物のうらはらに、「地上げ」と言われる良くない活動がある事を知り、すっかり興ざめしてしまいました。

そして、4年生の夏休みから保険業界への就職活動へと転身しました。

実は私が19歳の夏に、交通事故で3日間意識不明になり、生死をさまよいました。両親は本当に不安で困惑しました。そのような窮地に立ったり、不安で困っている方の相談に乗ってあげられる事、話を聞いてあげられるだけでも、そんなことを実際に自分が経験した、人のためになる仕事であったということを思い出しました。

そして純粋に人のお役に立てる仕事として、保険代理店の仕事をしようと変わっていき、最終的に東京海上社で代理店として独立を目指す事を一生の仕事と判断しました。このお仕事の経験も、今でも全ての根底となっている仕事です。

こうしてあっさりと、進路をかえてはみたものの、実際に仕事をしてみると保険営業の難しい現実にぶつかりました。当時、ほとんど他社と内容が変わらない損害保険を、たくさんいる同業他社の中で、どうすればこんな若造を信頼して加入していただけるかは、毎晩寝ずに考え行動しました。難解な保険の定款を読み込み、商品知識を比較検討し、まずは自分自信が信頼できる人間になる事を目指して努力をかさねました。

実際、無事に独立できるのは、全体の1割です。まるで生き残りをかけたゲームのような世界で、徐々に契約をいただけるようになり、やがて全国130数名の中でも、全国第一位のトップセールスマンとなる事ができました。そして全国の後輩育成講演なども複数回もお話させていただく事になりました。

信頼を根底とする仕事において、「人の為になる」というのは、正直、実直に誠心誠意、お客様の立場に立って物事を考え、できる事をとことん精一杯やるという姿勢で努力してきました。
業務のキャンペーンで入賞した時、代理店として独立した時、会社を法人化した時、事務所を建てた時、など長きに亘り一緒にお付き合いをしてくれて、一緒に喜んでくれたお客様皆様とのご縁を大切に、この保険業務は現在30年目を迎える事ができています。


青年会議所(JC)での活動 

地元西東京では、「わんぱく相撲」の開催や、各種まちづくり運動を実施しました。27歳から40歳までの13年間は、実にいろいろなことをやって、ほぼ毎年出向もさせていただきましたが、時間をしっかりつくり、その責任感から休むことなく、ほぼ皆勤賞、または精勤賞で表彰されています。
東京ブロック出向では、研修委員会の副委員長から、室長、事務局長、副会長、顧問などを歴任し、政治環境政策室長時代は「憲法改正について」等の意見書を提言しました。また、環境政策として、「環境サミット」を開催し、ゴミ袋の有料化の必要性などを提言しました。その際、西東京市のゴミ袋有料化を進めた行政担当者にも参加を頂いていました。「公開討論会」、「市民討議会」を実施するなど、青年経済人として、都内各行政担当者を交えた政策提言等々を多数行ってきました。

日本青年会議所への出向時代は「NPO支援」や「コミュニティビジネス」を政策として全国の青年会議所へ推進しました。また毎年7月に横浜で開催される、サマーコンファレンス(全国大会)実行委員会では、これまで使いこなせなかった横浜市所有のクルーズ船「はまどり」担当責任者となり、全国でも一割もいない、数少ない女性メンバーの横断的なネットワークづくりの必要性を説いて、女性メンバーだけを対象にして、横浜港サンセット・クルージング開催しました。初めて満員御礼としたはまどり事業の、そのアイデアは全国のJCに驚きを示したものでした。


青年会議所は、40歳を迎えると、その12月に卒業となります。

都内に24ある青年会議所の卒業生を代表としてご挨拶もさせていただきました。(写真右)

「人のためになる仕事をしたい」という自分の社会活動のルーツとポリシーは、青年会議所の活動を通して育まれたものであり、さらに西東京という地域のために貢献したいという想いを育ててくれたように感じます。

jc


歴史を受け継ぎ、地域のために貢献したい!

子どものころから何度も聞いていた、私のご先祖様たちも、ずっと昔からここに暮らして、地域の方達と共に地域の課題等に取り組んで解決してきたのでした。永遠に引き継がなくてはいけないような使命のようなものを、生まれながらに与えられているような気がしています。

伯母曰く、「(私の)おじいちゃん」は、地域の役回り?(地域役員、菩提寺役員、氏子役員、農協役員、そして選挙事務所としての我が家の提供、後援会活動等々)を、いっぱい受けて、いつも遅くまで会合に参加して夜中に帰ってきていた。

また戦争混乱期に、焼きだされた方達のために。と、してはじまった、農業の傍ら敷地内に小さな長屋のような住まいを何棟もお金を借りて建て、安い家賃での住宅の提供は、当時の地域貢献というとオーバーですが、私が子どものころまでそれらの建物が存在し、現在の賃貸業のきっかけとなっています。

私の「父」は、瀧島家という農家の三男に生まれ、本来、家督を継ぐ立場ではなかったのですが、長男を戦争で亡くし、次男の伯父夫婦と祖父の折り合い等々訳あって、私が8ヶ月のときに祖父の介護を兼ねて現在の保谷の家に入りました。まもなく祖父の相続を機会に、父はサラリーマンと数百年と続いていた農業をバッサリとたたみ、農地を事業用地へと変え、現在の㈲たぬきやの基礎となる、小売・飲食・賃貸業・物置やプレハブ等の建築販売等の、個人事業を起業しました。一念発起し慣れない事業に追われ、一生懸命に家族と先祖を守るために商売を頑張りました。

もし長男に生まれた私が、父の立場ならば、長く続いている農業をやめることは出来なかったと思います。また新事業を立ち上げる勇気も私には無かったかもしれません。そういった意味での父は、しがらみがないとはいっても、その決断力と行動力を高く評価しています。

昔ながらの地域(村)社会との関係を一切きってしまった父ですが、一生懸命に続けていたのが献血です。その回数300回時の表彰をはじめ、功労賞等の表彰をされていたその姿勢は子どもながらにも敬意を表していました。

現在の献血回数とはカウントの仕方が違いますので回数の比較は出来ませんが、私は、父への反骨精神は非常に強く、父が誇りにおもっていた献血にも対抗心を燃やしていたのも事実で、ただ不摂生な私は到底父と同じ土俵での献血回数では勝負になりませんし、元々はそれほど献血に対しての熱いおもいはありませんでした。後に私が献血推進協議会の会長としての活動することには、大きな影響と刺激となっていたことは確かです。

責任感が強いところから、献血推進協議会の会長としておされ、時に衰退化していた献血推進協議会を建て直し、毎年1,000名、2,000名という献血者数を組織的に集めていけば、結果としては、私の出来ることとして明らかに父以上の献血回数以上の社会貢献をすることが出来る。そんなことを頭の中に少し秘めつつ、しっかり取り組んでまいりました。

西東京市献血推進協議会での大改革

平成18年度から6年間会長を務め(現在は顧問)、形骸化していた献血推進協議会を大改革いたしました。

私が引き受ける前からずっと、献血者数、目標2,000名/年というのは、とても集められなかった目標にするには少し高すぎる数字でした。少しずつひとり先頭に立って献血実施会場を開拓し、献血の実施回数を増やしていくと、これは当然に献血者数も増えていきました。少しずつ目標数字を増やして、毎年確実に目標を達成していくことを重ねていくと、だんだんと2,000名も見えてきました。一つ一つ階段を上るように目標達成していくということは、とてもやっていて気持の良いものです。段々とメンバーの意識と行動力は上がっていくのです。もう一段上に行くには、会場数をもっと増やせば、それは当然に献血者数も増えるのですが、全くのボランティアで活動する私達メンバーの負担も既にだいぶ増大しており限界でした。これ以上の実施回数を増やすことは厳しい状況となっていました。するとここでアイデアがひらめき、視点を変えて、私たちは「献血者数」2,000名を目指すのではなく、実際私たちの仕事は、マイクしゃべることではなく、ティッシュを配ることでもない。私たちは実際に市民を呼び込み、受付をしてもらうところまでが私たちに出来る仕事である。ということを明確に共有したのです。折角善意を持って献血してくれようとした方でも、実際受付をしてみると、その日の体調で貧血気味であったり、慢性的にお薬をのまれていたり、厳しい海外渡航歴ではじかれてしまわれたり、実際に献血ができると条件、ルールに合致しなければ、その方は献血をしたくても実施するにまで至らないのです。それは個人の体調や個人情報であり、受付の職員や面談する医師が最終判断をするものであり、ボランティアで呼び込みをしている私たちが踏み込めない部分であり、その責任はありません。いずれにしろ私たちはしっかりと受付までの勧誘をすること。その「受付者数」を増やしていこう。と、似てはいても明確な違いを共有して、その「受付者数2,500名」等という目標設定をするのです。

そうするとメンバーは受付に来ていただくまでの、きっかけのための呼び込みであり、そのためのティッシュ配りであるということで、活動・行動には魂が入り、同じことをしているようでも全く別の行動となります。日本人はそもそも善意で献血をしようする意識も根付いている方が多いです。その善意の行動につながるように、私達も身を引き締めて背中を押してあげられるかが大事なことです。忙しい・暑い・寒い・痛いという中にでも、受付までにつれて行ける確立は格段に上がっていくものです。ティッシュの配布の仕方から、声がけのトーン、笑顔、自分たちの立ち位置はもちろん、のぼりの位置まで、その明確な目標達成のため、皆さんしっかりと行動できる組織となってまいりました。仮に受付ではねられても、その切り替えも早く、次の受付者を呼び込むことだけに集中していけるのです。そんなことの積み重ねで、最終的に2,500名を超える受付者数を達成しますと、おまけのようにいっしょに、長く超えられなかった献血者数2,000名という実目標は、あっいうまに飛び越えてしまいました。

自分達の決めた目標数値を、自分達の仕事で、達成できた喜びというのは、また格別に嬉しいものです。「受付者数」だけを目指したということは大当たりでした。メンバーの達成感、充実感の高揚は、どんどんとプラスに、プラスにと広がっていくもので、その結果を持って総会や新年会を開催するときには、もう一味、スパイスを利かせるアイデアが生まれ、更に良くなっていくのです。

献血推進協議会は、市からの補助金団体です。市の責任者たる市長や議会の代表としての議長、都議会議員や衆議院議員等の方達からも、日頃の無償の取り組みとその結果についてを、ご挨拶を通してねぎらいのお言葉を頂くのです。普通の主婦や高齢の委員の皆さんの中には、なかなか市長や議員などと身近に話す機会も少なかったしていた中で、献血の総会や懇親会でその機会があったりしますと、また益々、楽しく何かご自身の満足感を求め、参加してくれるようになって来ました。

この完全ボランティアの献血推進協議会を構成する老若男女、私たち一般市民で構成されるメンバーの意識と行動力は、合併により新設した、西東京市献血推進協議会の10周年記念式典・事業・懇親会を、私たメンバー皆で力を合わせ、しっかりその仕事を分担し、責任を自覚し大々的に計画し実施いたしました。

あれだけ大きな献血推進協議会の周年事業など、見たことも聞いたこともありません。

毎年新年全国で一番最初に行われる献血として有名な、1月2日の東伏見稲荷神社の献血には、お正月にもかかわらず、メンバーのご家族までがこぞって参加してくれました。メンバーの年頃の若い娘さんが振袖を着て呼び込みをしていただけるまでになっていた、西東京献血推進協議会は、間違いなく全国ナンバー1の献血推進協議会になっていたと思います。

会員メンバーの皆さんと、献血をしてくれた市民の皆さん、ご理解、協力を頂いた行政、議会の皆さん、みんなへの感謝の気持ちを忘れたらいけません。

2012年 西東京市議会議員補欠選挙にチャレンジ

いろいろな地域活動をずっと取り組んできたことからだと思いますが、合併運動をJCの理事長として最前線で行っていたころから、「君は〇〇党の隠しだまだね」、「次、私の後釜は君しかいない」「瀧島君みたいなものが出なきゃだめなんだ」「本当にまちを動かすなら政治しかないよ」等々と、30歳ぐらいのときから、ずっとことあるごとにいろいろと言われ続けていました。

ただ、保険の仕事も調子よかったですし、信頼してくれているお客様も沢山いました。仕事以外でもとても充実した青年会議所活動を中心とした活動をおもいっきりしておりましたし、妻と二人の子どもにも恵まれて楽しい生活をしていましたもので、議員になるつもりは元々全くありませんでした。

2011年12月末、「是非〇〇党をあげて支援するから、助けると思って出てくれないか」との丁重に頭をさげられ、1月3日までに返事をくれ。と、お正月は家族で真剣に考え、そんないろいろな背景もあったもので、いよいよ覚悟の時なのか。と、大きな勘違い?だったのか、

2012年2月の市議会議員補欠選挙に、46歳で初出馬。〇〇党をあげての支援は幻であり、右も左もわからないまま、私の力不足の結果として、11,224票をいただくも、当選には届きませんでした。そのときに応援してくれた方達への感謝は、これまたお金では買えない忘れられない経験をさせて頂きました。

選挙


市議本選に改めて挑戦

一度補欠選挙で敗戦したもので、もう議員にれといってくる方も無いだろう。と、思っていました。

自分に出来る地域活動等を青年会議所活動や献血推進活動、商工会活動などを、地道に取り組むことの方が私には向いている。と、選挙での落選という結果とその語りきり無い経験をしてそう思っていました。そんなことで、やはり昔から誘われていた、保谷ロータリークラブのお誘いを受けて入会させていただき、ゆったりとやっていこう。などと考えていたのですが、前回の補欠選挙を見ていた、やはり当時の地元の衆議院議員、次世代の党幹事長になられていた山田宏衆議院議員(現・自民党参議院議員)から突然のお電話で再会。もう消え失せていたと思っていた、私の中のある、地元への想い、西東京市への熱い改革の想いを鮮明に呼び起こされてしまいました。改めて捲土重来を期し、市議会議員の本戦に、山田宏議員の全面的な支援をうけて挑戦する事となりました。

2014年(平成26年)12月、西東京市の中でも、私の住まう地元共通の願いである、西武柳沢駅周辺地域の活性化をメインに訴えさせていただき、1,219票の貴重な想いを頂き、28位。最下位ながらも当選させていただき、市政に地域の声、厳しい市民の目を示す活動の場を頂戴させていただきました。

市議会議員として送りだしていただいた事で、「人のために働きたい!」という私の想いは、より多くの方に、より広範囲な地域のために、益となるような活動をさせていただく事ができるようになりました。

地域のボランティア活動や献血推進事業、被災献金などの活動はもとより、議員だからこそできる組織改革、市政へのチェック機能や施策提言などを全力で行ってきました。


見た目の派手さこそありませんが、これからも「正直に。実直に。未来に誇れる西東京市を創る」為に日々努力を重ねていきたいと思います。


市議会議員としての活動 「是は是、非は非」。

「良いものはよい。悪いものはわるい」。と、ぶれない厳しい自分をつらぬき、市政に風穴をあける!

まずは、たきしま喜重といえば、前回選挙で、徹底してご支援を頂いた、特に西武柳沢駅周辺地域のまちづくりについては、ほぼ毎回、ゼロ回答の答弁に対しても、しつこくも、諦めることなく手を変え、品をかえ、質問のひとつとして取り上げてきました。市長・執行部に対して、合併後、市内でも唯一何も市が取り組まずに、地域不満が募っている地域であり、その活性化へ向けた取組みの要望や実際の政策・施策につながる提言を、多数全力で取り組んでまいりました。

<以下、準備中>


その他

まちづくり市民会議座長として、「西東京市市民参加条例」の骨子案を参加市民に説明しています。

市民参加条例は、西東京市における重要な法案をとおす前に、必ず市民の意見を2つ以上の方法で聞かなければならない。とする、市の骨格を成す大変重用な条例です。公募市民で集まった、まさに市民会議で、その座長として、市民意見もまとめて、市長へ骨子案を提出し、現在の市民参加条例が出来ました。

西東京市民まつりには実行委員会 委員として参加させていただきました。

西東京商工まつりには、部会長代理として登壇。

東日本大震災発生時、商工会青年部として、いち早く駅頭での募金集めを実施しました。

募金活動

ロータリークラブや、地域の活動にも積極的に参加しています。

ロータリークラブ

訓練

終戦の日、毎年靖国神社を参拝します。

市議会議員となって、『靖国神社へ参拝する全国地方議員』の一員として参拝させて頂いています。
戦死者の中には、本来瀧島家を継ぐべき伯父の御魂も祀られています。

靖国神社参拝